神田真澄の氣ままな話 in 明光武道 深雪館

明光武道 深雪館 道場主のブログ

日本拳法について 〜その二〜

今日は、続編の中高生時代のお話を書いてみたいと思います。

 

前回では、日本拳法を五歳から始めた話を書きましたが、その後中学三年まで、日本拳法発祥の道場である総本部・洪游會本部に所属して、有名選手やOB、もちろん岡田師ら大人たちに揉まれながら練習を続けました。

自分がどのくらい強いのか、ハッキリわからないまま練習を続ける毎日。たまにはサボったり、イヤイヤ行ったりなど、英才教育ではないけども、継続は力なりで道場に通い続けました。

そうしてるうち数年の間にそれまで少年の部というのがなかった時代から、新しく創設された時代へと移っていきます。そして、十四歳の夏に初めて公式試合に出場します。それが日本拳法洪游會三十五周年記念大会です。

 

それまでの私は、大人に混じって練習してたので、いくら中学三年で身長が180cmあっても、ヒョロヒョロでしたし、最初の方はゴツい大人たちには寝技もあって、力でなかなか敵いませんでした。ですがそれなりに若いながらも十年近いキャリアとセンス、手足の長さを活かせて対等に組手ができるようにはなってました。あの白帯は誰だ?といわれたこともあります笑。

だから、自分がどれくらい強いのか、試合では勝てるのかなど全くわからない状態で、ただただ名師範・奥瀬先生に教わるがまま拳法に打ち込んでました。昭和やね笑。

 

そして、最初で最後の少年の部(まだまだできたて)での試合当日。

奥瀬先生のアドバイスは、いつも通りでいい、ただ、先に行け!とだけ。

初めての試合で、さすがに緊張して喉が渇きます。当時は試合前に水はご法度な時代。カラカラ感が余計に闘争本能に火をつけます。

後で聞いた話ですが、私はバリバリの大阪人ですから、それなりに氣が短いのかもしれませんが、道場では大人に囲まれた中学生というのもあり、おとなしく寡黙に振舞ってたので、試合当日の私の顔を見た先輩方が、「あいつ酒でも飲んだんか?笑」と揶揄うほど、試合相手と対峙した時の顔は今までにない仁王だったそうです。笑

その頃のビデオがあったらな〜。今みたいに普及してない時代やったからな〜。悔しいね。

 

そうして試合直前にふと見ると、その目線の先にはなんと奥瀬先生が。あまり試合会場には足を運ばないで有名な奥瀬先生が、私の試合を見てくれている!勇気百倍で、アドバイス通り、先に攻めます。すると、オモシロイように技が極まる。突き、蹴りが入り相手がよろける、仰け反る、場外へ追いやれる。圧倒的強さで勝ち進んで、一本も取られずにトーナメントを制覇し、初めての試合で初出場初優勝してしまいました。自分でもビックリ笑。知らない間にこんなに強くなってたんだと!

そうして、試合後に奥瀬先生の顔を見ると、あのあまり褒めない先生が初めて「よし!」と褒めてくださいました。あの嬉しさの感度は今でも書きながら涙が浮かぶほど、忘れません。私の格闘家時代の原動力の一つです。

 

人生で初めていただいたトロフィーを持って、祝賀会では大先輩方々からお褒めの言葉をいただいては、祝杯をさせていただき(たぶん金色の泡の出る苦いジュースだったと思います笑)、なぜかしらフラフラになりながら、家に帰ったのを覚えています。

 

そのトロフィーを、まずは神棚へ。そして母に。後ほど、家族や岡田師と祝賀会をしていただき、勝利に酔いました。通っていた中学校の担任の先生から、朝礼で表彰して貰おうと提案してくださいましたが、少年時代は年頃で照れ屋だったのもあり、ひけらかすのが嫌なのもあって丁重にお断りしました。今、思えばやってもらってたら、靴箱にラブレターの山やったんちゃう?って思ったり笑。まぁ冗談ですけどね。

 

五歳から始めた日本拳法。格闘技。武道。

私には、複雑な環境下での育ちでも、グレることなく前に進めたのは、この日本拳法、そして武道を学んで培った、自身の誇りと軸、肚に信念があったからだと思っています。

もちろん神様、そして精一杯頑張ってる母親の背中、家族や友人、周りにいてくれる方々の愛は言うまでもありません。

 

今日はこの辺までで。

次回は拳法時代では大きい転機を迎える高校時代を書きたいと思います。読んでくださった方には感謝です。

 

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