神田真澄の氣ままな話 in 明光武道 深雪館

明光武道 深雪館 道場主のブログ

日本拳法回顧録6 〜全国高校選手権大会 後編その2〜

前回の続きで、全国高校選手権大会のお話。

 

そうしていよいよ出番がやってきました。

シード出場の二回戦から。

 

相手は一回戦を勝って登って来た二段の某選手。どこの高校やったかは忘れちゃいましたかが、大阪高校やったか伊都高校やったか笑。

ただ勝つと心に想い、試合開始。

怪我の利き手・右ストレートは温存しようとしながら戦うので、蹴りが多くなりながら距離感のリズムがいつもよりは崩れます。

でも、咄嗟になると右手は出してしましいアドレナリン出てるとはいえ、やはり痛いし氣になります。必死で戦いますが、相手も高校生で二段と、当時はそんなにいない一人なので、弱くはなく簡単には決めれません。

そうして時間が経つ間に、あともう少し・残30秒の声が審判団から発せられます。

ただでさえ怪我で焦り、優勝候補の一角で固くなり笑、で焦ってしまいます。

そして、禁断の右ストレートを出してしまいます。痛い❗️と感じるのも氣にせず、勝つ❗️という氣持ちから、もう一発と乱発する中、潜在的なストップがかかってるのか精度がやはり悪いのもあり、最後の一撃の時、相手の前蹴りと相打ちとなります。

ですが、審判団は相手に旗を揚げて、そのまま時間切れとなってしまいました。

どう見ても威力的には、周りのセコンドや観客も私のが上回ってたので、これは手前味噌でなく笑、そのまま審判団も集まり協議となりました。数十秒後に判定は覆らず、そのまま高校最後の夏は終わってしまいました。

後で聞いた話ですが、その審判団の中には道場の先輩である笹部師範代が副審としておられ、

協議の内容を聞きました。

ストレートに書くと、審判都合による判定だったとのことで、悪いけれども諦めてくれとの内容でした。

実際、複雑な心境でしたが、当時は審判は絶対。また、いろいろな審判事情があって理不尽な判定はよく見られたのも事実です。

それも含めて、試合、勝負ですから受け入れるしかないのが現実でしたね。

今でもボクシング界の話とか、いろいろ出てきてますが、いい時代になったのではと思います。

 

話戻って、ここは潔く引くのも礼儀。

文句なしに完璧に勝つことが私の主義なので、負けを受け入れました。

手も痛かったから、そのまま上に進んでたら戦えたかどうかもわからんしね笑。

 

そうやって、私の高校最後の大会は終わりを告げました…。

 

って思った?笑

 

それがね、腹の虫がおさまらん私は前人未踏の記録にチャレンジすることとしたのです。

それはまた、次の話で。笑

この格闘技編は楽しく書かせてもらってますわ

 

今日はこのへんで。

 

 

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写真はサーフィン。

格闘家はサーフィンやってる人が意外に多い。

バランス感覚や体幹の筋肉の訓練としても、有用なスポーツ。総合の選手にはもってこい。

ちなみに私は海や波とゆっくり一体になれるのが好きでゆるりと始めました。