今日は節分です。
現代の節分は呪詛的な意味合いの間違った伝統行為が多く、良かれと思ってやってることが、実は日本や世界の衰退へと、知ってか知らずか援助してしまってることは、現代人で知ってる方どれほどおられるでしょうか。
あらためて、古の神道では、節分が過ぎてはじめて新年が明けたとされます。
古の日本の氣の考えや武道を伝える明光武道 深雪會グループでは、この月を主とする太陰暦(旧暦)を重んじ、節分には道場行事として道場の神床にて、総本山の京都を遥拝し、節分大祭・人型大祓の遥拝祭を執行いたします。
一年の大難を小難に、小難を無難にすませていただけるよう世界平和を祈願して、僅かながら祈りの力でも真信を持って行っております。
どうにもならんことは、万事を尽くして、そして天命を待つです。
ちなみに人型とは、一般的に日本古来からの伝統行事で、各神社でも行われてる神事ですが、人型といわれる紙に自身の名前を書き記し、自らの身代わりとして大海へ難を流すという大祓行事です。
これは皆さんの氏神様(産土大神・うぶすなのおおかみ)の各神社でも簡略式ではあれ、施行されてると思います。
古の神道では、本来の形で、総本山の御神体の神前で神官の方々が全国から届いた人型の一人一人の名前を唱えながら、陶器の壺に入れていきます。もちろんそれを全国分行うわけですから、時間も一昼夜、つまりほぼ一日中かかりますし、陶器の壺も何百となります。そして参拝者らが、その行事を後方から祝詞と言われる言霊を、何度も何度も奏上しながら祈願する光景は、一度目にするとその荘厳さに心、肝を打たれます。これが本当の大宇宙の摂理の教えであり、祈りだなと。
どこかの金を積めば幸せになる!みたいな、怪しい宗教団体や、浅はかな欲望を賽銭を投げつけて、パンパンと乱暴に拍手してお願いごとを簡単にして、ご利益ご利益とやって、本人は暖かい布団で寝てる姿は片腹痛くなりますね。そんな祈りは自己満足しかありません。
人のレベルでも、人に挨拶やお願いごとある時は、正装して菓子折でも持参して最敬礼で会うのが社会常識なら、大自然・大宇宙の主である、ここでは神様といいますが、お願いごとをするのに裸のお金を投げつけて(これは邪気払いの意もあるという一説もあるが)簡単にお願いを、特に個人の欲望を満たす願いを唱えて、帰るという姿を、何と思います?
ちなみに私は既成宗教団体の否定主義者ですから、
今はその理論闘争するのではなく、シンプルに、日本の礼としてどう思う?と言いたい時があります。
パワースポットしかり、欲が叶うなどのご利益主義の考えでお参りするのに、そんなのもしこの世に神様が、いらっしゃるならそんな欲望には叶えてくださるはずがないでしょう。
もし叶った、ご利益あったというのであれば、それは古の神道でいう動物霊や兇とう界の邪霊がそこそこな力はあることから、欲望が叶えられるのであろうが。その縁を持ってしまった人の末路はエグいですがね。
興味ある方は、ご自身で調べてみては?例えばお稲荷さんとか。稲荷大明神とその使いの狐のことです。
日々の生活の無事に感謝し、家族の安全、健康を、公平無私の姿は、自ずと幸せな方向へと進むことでしょう。もちろん努力して祈ることは、それが夢につながっていくと思います。
話戻して、人型大祓の続きですが
クライマックスは、その全国の方々の人型が満タンに入った壺を、神官らがそれぞれ持って大海へ繋がる大河にて、祝詞の言霊の中、一つ一つ割って人型を流していきます。その光景は、まるで人型が滝のように舞っていき、これまた圧巻です。
流し終わった最後に、皆で祝詞を奏上して終了です。これが一連の人型大祓です。一年の無事を祈る、真の伝統神事です。
最後に豆まきしますが、その時の掛け声が
「鬼も内〜福も内〜」です。何でかな〜?笑
鬼は、本当は国祖 艮金神 国常立尊のことです。
これも最初に話した呪詛的な話があります。
興味ある方は調べてみてくださいな。うちの道場でも伝えてますから、入門してみては?笑
本当の意味で、日本の古の伝統を正していきたいですし、まずは正しく実施させていただきたいと思ってます。
まぁ、またの機会にでも話しますね。
あらためてこれを機に、大宇宙・自然の摂理や参拝の姿勢を見直してみませんか。
節分に、あらためて新年を迎え、この混沌とした世界の平和を微力ながら祈ります。
今日はこの辺で。
呪詛により鬼とされ、悪神どもから艮の方向に押し込められていた真の国祖の大神(艮の金神)。だから、真の節分では宣り直して、"オニも内、福も内"と発するのです。
いよいよ国常立尊が三千世界の立て直しを行われる時期となりますよ!