神田真澄の氣ままな話 in 明光武道 深雪館

明光武道 深雪館 道場主のブログ

瞑想について

今日は、以前に他社に掲載した記事を転載します。

瞑想を通して、自分を見つめ直すキッカケとして

何かを掴んでいただけたら嬉しい限りです。

 

これからの時代は、もう何かに依存して正してもらうのではなく、自ら氣づき、見直し、自分で正していく、自らが強くならないといけない、生き抜いていく時代です。それはココロもカラダも然り。

瞑想はその大きな助力となるでしょう。

 

 

〜転載記事一部〜

今回のテーマ”直観力”について
お話ししていきましょう。

瞑想について、
基礎的なことは以前(第2稿)の
メールマガジンでも
お話ししたかと思います。

今回は瞑想でお話ししたい広い内容から、
「直感と直観力」について、
それに付随した内容とともに
進めていきたいと思います。

まず、「直感」と「直観」について
お話ししましょう。

読者の皆さんは
意外にこの言葉を混同して
普段は使用していると思います。
無意識的に使い分けていた方も
いるかもしれませんが。

改めて、この違いが分かりますか?

広辞苑にはこのように書かれています。

・直感
〔勘などの働きによって〕物事をただちに心にとらえること。瞬間的に感じとること。
・直観
一般に、判断・推理などの思惟作用の結果ではなく、精神が対象を直接に知的に把握する作用。


なんだか難しいこと書いてますね。
もう少しわかりやすい言葉で
書いてみますと

・直感
感覚的に物事を瞬時に感じ取ること。(インスピレーション)
・直観
過去の経験に基づいて、直接的に対象やその本質を捉える即時的な認識能力。(第六感)


これだとなんとなく理解できそうですね。
感覚的に言ってみれば、
直感は降りてくる、
直観は湧いてくる感じというと
何となくピンときますでしょうか。
いやいや正直微妙かなw。

そもそも直観力は
仏教用語としても使われており、
「観自在」の言葉などは
聞かれた方も多いのではないでしょうか。

すべての事物を自由自在に
観ることができるという意味があります。

つまり直観は理屈で考えるのではなく、
先入観なしにありのままを観ることから
考えをイメージして”本質”(核)を掴む
ということを言います。

でも人はなかなか
直観で物事を観ることは難しいようです。


ではここで、第2稿でも書いた
大脳生理学(脳科学)などを引用して、
瞑想はよく科学されてますが
(私はあまり信用している分野ではありませんので、参考程度に利用する程度ですが)、
直感と直観について
大脳新皮質」と「大脳辺縁系」の分野で
考察してみましょう。

前回も書きましたが、
もう一度簡略に説明すると、
人間の頭(脳)には
表層にある大脳新皮質
中心部にある大脳辺縁系があります。

この大脳新皮質は、簡単に言えば
人が現在まで生きてきた間に学習した知識、
記憶などがPCのデータベースのように
蓄積されています。

そうして皮質はどんどん発達して
大きくなっていきます。
いわゆる常識や既成概念(固定概念)、
欲望などがそうです。       

一方、大脳辺縁系はいわば
本能、感覚(イメージ)、
認知に繋がる分野で
人本来の自然な姿(潜在意識)と
いえるでしょう。
皆さんがよく耳にする
アルツハイマーに関係し、
認知力を司る”海馬”も
この大脳辺縁系にあります。

例えば
ビジネスシーンを例に脳の働きを観ると、
新入社員の面接時に
マニュアル的な対応をする際に
使われるのが、
知識としてのデータバンクである
大脳新皮質
定番の質問に定番(既成概念的な)で
無難な回答をするといったシーンですね。

一方、その既成概念に囚われずに
自身の直感、感覚で捉えて
マニュアル通りではない
オリジナルな回答(発案)をする際に
使われているのが大脳辺縁系といわれます。

知識が増えれば
それだけ大脳新皮質の分野は発達、
蓄積されるデータが増え大きくなりますが、
それだけ既成概念(固定観念)に
囚われやすくもなります。
一般常識や、ひいては
洗脳された現代意識なんかもそうですね。
 
それに対して、
感覚的に物事を捉え、
自由な発想を産するのが
大脳辺縁系の分野です。
事象をイメージとして捉える分野と
いわれていて、
この分野を活性化する代表的なものは
”芸術”と言われています。

例えば、ここで
自由に興味深い発想をしても、
自身の大脳新皮質が既成概念を基に
その発案を潰してしまうといった現象が、
脳内で何度も行われてしまってます。
このような似た経験ないですか?
 
このような背景から、
脳科学の観点から言うのであれば
”直観力”は大脳辺縁系を中心に、
この両者の脳の繋がりから来る、
つまり直感的に感じた事柄を、
経験とイメージを基にした”観る”ことで、
その本質を把握すること、
それを瞬時に行える力と考えています。


そして、
今回のテーマ元である「瞑想」が、
この大脳辺縁系を中心に活性化させる、
つまりは”直観力”を鍛えるのに
効果絶大とされており、
1970年代頃から
世界の各大学や各研究機関で
行われています。

瞑想を継続し、
上達(精進)していくことで
この大脳新皮質の働きを
抑制(コントロール)できるようになり、
さらに大脳辺縁系を直接刺激し
活性化することで、
普段使われていない人の持つ本来の力
(潜在能力)に
導かれていくとも考えられています。

よく瞑想はそのルーツである
仏陀(釈迦)の”解脱”の話などが
ありますが、
その状態は大脳新皮質の働きを抑制し
(自我を無の状態へ)、
大脳辺縁系がまさに活発に活動している、
人が何にも囚われていない
本来の自然状態をいいます。

つまり自我を超えた仏状態とでも
言いましょうか。
寂滅為楽(ジャクメツイラク)という
仏教用語も納得できるかと思います。

わかりやすく言うと、
修行で大脳新皮質の分野を取っ払って、
大脳辺縁系の分野だけで捉えてる状態、
極端にいうとそんな状態ですね。
釈迦やイエスらは
そのような状態であったと思われます。

ではさらに当道場にご縁が深い、
日本古来から伝わる神道古神道)では
どう考えられてるでしょうか。

古神道では、
人には本来内在する霊魂として、
天から直接内流を受けたる本守護神
(本霊・直霊)があって、
それぞれ正守護神と副守護神があります。

正守護神は人類愛、道徳心など愛が司られ、
公平無私なる活動の精霊をいい、
副守護神は自身の肉体のための欲望、
自我にあたり優勝劣敗、
弱肉強食的な活動の精霊をいいます。

わかりやすく言うと、
正守護神は善の心、副守護神は悪の心です。
正邪一如、人には意味があって
これらの心が在るのです。

そしてこれを
大脳生理学で表してみるならば、
それぞれ大脳辺縁系(本能)と
大脳新皮質(自我)に近いですかね。

そして直感は
天(神)から人への”内流”をいい、
正守護神の姿ですが、
その上で本質を把握した直観力は
智慧証覚”に繋っていくと考えます。

なんとなく理解できますか?
古神道でいう、
神界では意思・想念の世界であり、
いちいち理論づけて
言葉を多く使って話さなくとも、
一を言えば十を、
そしてそれ以上を悟る如く伝わり、
瞬時に理解(諒解)できると
云われています。

つまり直感は
勘が頭に思い浮かぶ
インスピレーションの如く、
自然と人に降りてくるもの、
天からの内流が人へと入ったことを指し、
直観力は人として生きてきた
今の自分自身の状態や経験を基に、
その直感をもって
本質を即諒解できる力であると
考えるのです。

元々日本には
頭(理屈)で考えるのではなく、
肚(直観力)で考えるという
言葉がありますが、
正にそれです。

そろそろ難しくなってきましたか?w。
できるだけ宗教的にならないように
瞑想を説明する際は言葉を選んでますが、
表現が難しいですねw。
でも安心してください。

私自身、
オカルトティックなことは大嫌いですし、
今回のテーマである瞑想は
決して新興宗教のようなものではなく、
れっきとした武道のメソッドです。

だからこそ
否定的な分野もしっかりと学び、
知っておかないといけないですし、
その上で正しく
実践することが大事なのです。

だから当道場で伝える瞑想(鎮座)は
純粋に自分自身を高めるために
伝わってきたメソッドとして、
まずは伝えています。
 
私自身は5歳より武道を学び始め、
10代最初までは密教(仏教)、
後半は古神道を学ぶ環境で育ちました。

日本古来から実践されていたであろう
「瞑想」は(実際はそのような言葉は使わず、状態をさす)
「鎮魂(御霊鎮めの御術・ミタマシズメノミワザ)」を指し、
私自身も貴重な経験を通して、
その古来の瞑想や
その意義を伝え残したいと
研鑽してきた背景があります。

この鎮魂は、
世間でいう鎮魂祭などで使われる
言葉とは違って、
自身の魂を体内に鎮める行法
(瞑想法)を言います。

合氣道でも
植芝盛平翁が伝えた頃の修行法には
この鎮魂や魂振り
(自身の氣、エネルギーを活性化させる)
などがありました。

そもそも
この合氣武道と古来からの神道
密接な繋がりがありましたが、
もう今はその真意は失われて
形としてのみ残ってるだけで、
真を伝えたり実践する人も
少なくなったようですがね。
(ちなみに明光武道と植芝翁とは核の部分で深い関係があります。大東流から合氣武道を創始した植芝翁、同じく意拳から明光武道を創始したその過程など。生き証人に聞いた数々の裏話もありますが、それはまたの機会に。)

本来、鎮魂は
鎮魂帰神法(チンコンキシンホウ)として、
神道では明治以前には
よく行われていた行法であり、
独特の方法で手を合わせ組み、
自身の体内に己の魂を沈め、
神(天)と繋がる(帰神)状態を
作る法です。

昔は幽斎修行として
行われていたといわれており、
様々な神様が懸かる(神懸かり)状態で
託宣などを宣べることなど、
聞いたことある方もいるかと思います。

その時に重要なのが、
正しくその懸かった神様を審判する者
審神者・サニワ)であり、
低俗な悪神(狐狸や邪霊)が懸かったのか、
正神系の神様が懸かったのかを
見極めることが必要で、
それによって狂言なのか、
御宣託なのかを判断するのです。

現代ではそれをできる人は
もういないですし、
実践もされていません。
詳しく知りたい方は、
鎮魂帰神や言霊などの研究で著名な
本田親徳氏の著書など
調べてみてはいかがでしょうか。

まだまだ瞑想に関して鎮魂について
もっとお話ししたい事項が多々ありますが、
ちょっとテーマから違う方向に
なりつつあるので、
字数も限られてますから
簡単な内容で留めておきます。
で本題に戻します。


瞑想はこの直観力を鍛えることに
格好のメソッドなのです。
前回にも書いた、
瞑想は本来、
単なる集中力を鍛えるメソッドや
その効果のみを求めて行う
メソッドではなく、
もっと純粋に自分自身と向き合う、
そしてもっと突っ込むのなら、
この大自然・大宇宙(天)と
繋がる時間を持つことが、
瞑想の核であると書いたと思います。

先の内容を絡めて、
その大自然・大宇宙と繋がっている
状態から天より内流が入り、
それを自身の肚で直観的に捉え、
本質を掴む。

その訓練によって、
人は常に様々な場面で瞑想状態を保ち、
頭で理詰に損得で考えるのではなく、
肚で物事を捉え
本質を見抜くといった力を持つことが
可能になると確信しています。

そうした過程で副次的に、
いろいろな効果が見られるのは
確かでもあります。
勘違いして欲しくないのは、
目標を持って瞑想するのは
もちろん大事なのですが、
その効果のみに固執した考えで行うのは
非常に危険でもあるのです。

現代の方に是非、
瞑想を実践する習慣を
付けて欲しいのですが、
必ず守ってもらいたい事項を
ここに今回初掲載しておきます。
(あまりにも○○瞑想やら、怪しい瞑想団体やら多いので)

 

次回につづく

 

今日はこの辺で。

 

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古の神道の聖地・高熊山。