神田真澄の氣ままな話 in 明光武道 深雪館

明光武道 深雪館 道場主のブログ

瞑想について 〜その2〜

前回の続きです。

 

これはあるマガジンに掲載したものですが、そこからさらに加筆、改訂してますので、既に読んだことある方ももう一度読む価値はあるでしょう。

 

どうぞこの文章を通して、本質を取り違いすることなく、欲など捉われることなく、正しく本質を掴んで、自分で何かを変えていくキッカケとしてもらったら嬉しい限りです。

それでは後編転載です。

 

 

〜転載記事〜
改めて、瞑想を実践する上で、
必ず守っていただきたい事項(ルール)を
書きます。 

まず禅病(氣功では偏差、ヨーガではクンダリーニ症候群ともいう)について
少しお話ししておきたいのです。

瞑想を実践するにあたり、
正しく学んでもないのに
勝手な解釈からアレンジしたり、
欲望をひたすら求めて行う
(その成果に囚われて実践する)ことや、
そこからメソッドを理解した風に勝手に思い込み、または慢心した状態となると、
本人は気づかずに
禅病を起こすことがしばしば見られます。

これをキチンと注意事項として指導する
団体や坐禅会などは殆どと言っていいほど
存在しないのが現状です。

ですが、これは学ぶ上で、
そして実践する上で、
しっかりと心に留めてもらいたい
重要事項なのです。

現代では瞑想をメソッド化した
マインドフルネス瞑想はじめ
様々な瞑想が今は存在します。
トランス状態をわざと作って行う
瞑想などなど。

どれが優劣あるなどの批判はしませんが、
必ず瞑想の基本ルールを守った上で、
行ってもらいたく思います。

意外と鈍感な方は
結構何をやってもどうもならなかったり
平気な方もいますが、
稀に敏感な方や神経質な方などが
間違った方法で実践してしまうと、
氣が上に滞ってしまい
偏差(禅病)を起こして、
その氣の偏った状態から来る、
心のひどい不安定な状態や、心身一如の意から
身体自体の体調を崩してしまう方など、
リアルにいます。

ただ、これが禅病になってるとは
中々本人は気づかないことが多いですし、
その本人は認めようともしないのです。
何ならそこから慢心して
俺は凄いと思い込んでいたりする場合もあります。
といって、
殆どの団体でこの状態を
正せるところもないのが現状です。

実際に私の生徒で、
以前某団体の瞑想スタジオに通ってた方は、
その禅病の症状を起こして
体調を崩したことから、
ご自身でそれを認識して
指導者へ相談したところ、
その指導者は
「大丈夫、大丈夫、そのまま放っておけば戻るよ」との答えで、
何もされずに放置されたと。

これを聞いた時は呆れ返りましたが、
瞑想を伝える現状は
意外にこれがリアルな状態です。
その方は、当道場へ来られてから
氣を下に降ろして改善し、
今は元気に過ごしておられます。

取り違いして欲しくないのは、
変に怖がらせているのではなく、
瞑想をご自身のライフスタイルにして
実践していきたいのなら、
きちんとその瞑想の意義や
ルールを守ってくださいねと言う
シンプルなことだけなのです。

でも世の中には、
つい合理的にアレンジをしたり、
限られた科学の範囲で解釈しようとして
体系を変更してしまい
結果重視で実践したりすると、
こういうことを起こしがちです。

そのような努力について
全面否定はしませんが、
危険も知ってもらいたいですし、
その上で責任持って実践してねって話です。

これはプロとして
何十年と指導してきた立場から、
大事な注意として伝えています。

偏差の状態になると、
なかなか元の(健常な)状態に
戻せる指導者は、
先も言ったように
現在ではあまりいないでしょう。

瞑想は、現代ではメソッド化して、
科学されてるのもあって身近に感じ、
誰でも簡単に行えると思いガチですし、
それは間違いではありませんが、
本来実践する際は
個々によっては瞑想の方法を変える
(立って行う、運動と瞑想の同時メソッド:站椿功・武禅についてはまたの機会に)など、
きちんとした指導が必要です。

自分ができたから(できてるつもりかも)
他人も大丈夫とは単純には言えないのです。
私は万人の方に瞑想を
実践してもらいたく思っているが故に、
正しく実践して!と言いたいのです。


ここまで書いたので、
実証も兼ね某団体の
一例(本当にあった裏話)を
挙げておきましょう。

私が明光武道の源流となる
意拳を修行中時代のことです。
道場で、
この偏差の状態の方々を実際に観て、
呆れるというか、
ある意味では恐怖をも感じて、
教訓にも良い経験・勉強に
なったものです。w

例えば、偏差を起こしている本人は
普通に振舞ってる
(自分が禅病とは思ってなく、より優れてると)つもりなんですが、
明らかに異様な怪しい状態で、
練習中に急に奇声をあげたり、
挙動不審で何かに怯えたり、
敏感というよりは
何かに囚われているような感じでと、
正直気っ色悪かったです。w

これは○野流という団体
(あるバレリーナが気功の団体を立ち上げ、飛んだり摩訶不思議な力にフォーカスを当て、それを気功と称した宗教団体のような気功団体)のことで、
実際にその偏差の人から聞くと、
そこの指導員が生徒を飛ばすということを
最高の状態としてるので、
生徒が飛ばない時などは
指導員から往復ビンタを喰らいながら、
力を抜いてなど言われて
グニャグニャの状態で、
飛んだら上達した的なことで
褒められるのだそうです。

気を上(頭)に上げた状態を
意図的に保たせる、
だからエネルギーの状態上、
気が上部に停滞しているから、
簡単に何をされても
飛んでしまうといった現象が起こる、
これを摩訶不思議的に
”売り”にしていた団体です。

そんなことを続けていると、
敏感でない人でも
偏差を起こしてしまいます。

単純に氣が上に滞った状態、
例えば緊張してる状態を
”上がってる”と昔から言いますが、
その状態でずっと日常居たら、
頭おかしくなりそうですよね?w。

そういった偏差になった人たちが、
私が修行当時の道場へ駆け込み寺の如く
何人もいたのです。
私が覚えてるだけでも
当時軽く10数人以上は、
程度の差はあれ見られましたね。

ほんま狐でもついてるのでは?
と思うくらい、目はイってるし、
奇声を挙げてクルクルと自ら回り続けたり、
四つん這いになって這ったりと
ホンマ動物園かと思うくらいでしたw。

先ほどの古の神道で話すならば、
悪いエネルギー(邪霊や動物霊)と
自我(副守護神)が
繋がってしまった状態ですね。
氣をつけないといけないことです。

裏話はこれくらいにして、
氣を学ぶ、瞑想を実践する上で、
そのメソッドの本質を
しっかりと理解した上で、
正しく学び実践してもらいたいと
思うばかりです。


では再度”直観力”に話を戻して、
まとめの話をしたいと思います。

先ほど紹介しましたが、
日本で古来より
”肚でものを考える”と言う
言葉があります。

これは脳でいう、
大脳新皮質のみで考えるのではなく、
大脳辺縁系を中心とした連携で
本質を捉え考える、

つまり頭で理屈的に考えるのではなく、
経験を基に直感
(アイデア・イメージ)を立てて、
まさに”直観的”に本質を捉える方が
結果的には正解が多いとの、
言い伝えです。

瞑想は、
脳の整理術や活性術というよりも
(それはあくまで副次的効果であって)、
肚の直接鍛錬法であり
心(脳幹)のエクササイズであると
言えるでしょう。

少なくとも当道場の瞑想で
核としているのは、肚の鍛錬、
つまり臍下丹田の直接的な鍛錬を
主としています。


瞑想の意義については間違いないよう、
何度でも同じ文言を繰り返します! 
瞑想は、自分を見つめ直すこと。

立ち止まって、
自分自身を観る時間を持つことです。
そんなに突っ走って生き急がずに、
一度立ち止まってみることです。

本当の自分は、
何ができて何ができないのか。
人に良くみて欲しい承認欲求から
無理して、自分を実力以上に
過大化していないですか。

自分は本当は何がしたくて、
実際は今何をしているのか。
そして人生のどこに立ってるのか。

間違ったことは意地張らず、
素直に改めて(自我・副守の改心)、
正しい道を選べているか。

そしてこれからどう生きていくのか、
生きていくべきなのか。

全ては自分の中に答えはあります。

自分自身で心と向き合い、
答えを出していくしかないのです。
本当はわかっているのかもしれません。
ただそれを自我が邪魔しているから、
観えないだけなのかもです。

それは日本古来の氣の考えであり、
そして、
人と大自然・大宇宙とがつながる
大事な時間なのです。

日本人には、古より
大自然・大宇宙を、神として畏敬し、
またその下で
宇宙・森羅万象の法則に則り
大自然と共存し、
秩序を守り
力強く生きていた背景があります。

つまり現代の怪しい
既成宗教の考えとは全く異なり、
仏教伝来以前の古から
国教であった古の神道
大自然・大宇宙の摂理であり、
日本では古来より素直に
その恩恵への感謝と祈願の意から
手を合わせ、
神に祈る姿があったのです。

これは神、すなわち
大宇宙、大自然と繋がる時間であり、
究極の瞑想の時間ともいえるでしょう。

武道の極も
”神人合一(天人一致)”なのです。   

その元で、自分と向き合い、
そして見直し、
そして閃き(内流が入り)、
開眼(直観で本質を認知)していく。

それが
いろいろな意図的行為により
”科学”という宗教が、
この誰もが持っていた
”氣の考え”や”瞑想”の時間から
遠ざけさせてきた歴史的背景があります。

そうしてこれらは
今では専門分野の人
(坊主や各マスターら)がする
ものとさえ認識されていることに、
大和民族、日本人としても
寂しさを感じざるを得ません。

日々内省し、自らを正し、
そして自分自身を知り、
自分軸(肚)を確立して生きていく。

何が起ころうとも腹帯を締めて
ドシっと構えて前に進む。

その日々の力が
身近なソサイエティ、国、
そして地球の一つの力と大きくなり、
時代が前に進んでいく。

私が伝えたい氣の武道や瞑想は、
上に書いたことが
重要な意義と確信しています。

少なくとも、
当道場で伝えている
明光武道式の瞑想である
”鎮坐”はそれを核として行うのです。

その過程を経て、
得られる副次的な結果
(以前の投稿を読んでください)を
目的にするのではないのです。

自我、我欲を強く持して行う
瞑想などの行為は、
必ずや慢心や固執心に
囚われてしまうことで、
最初はよい状態と思っていても、
いずれ自ら地の底に
落ちていってしまいます。

まずは何事にもとらわれないで、
あるがままに座るのです。

だから、
こうなるとかこうしなさいとかの
余計な導きは必要ありません。
答えは自分の中にあるのだから。

自分自身と向き合い、見つめ直す。
シンプルにそれが瞑想です。

そうして培った”直観力”
(肚で捉える)で、
表面的なもの(既成概念)ではなく、
物事の本質を把握して、
人生を力強く
前に進んでいただければと思います。

今回は瞑想の力について、
直観力から核の部分と注意点を
簡略にまとめてお話ししました。

いつもながらですが、
乱文をご容赦くださいね。
この記事が何かのお役に立ててれば
嬉しい限りです。

 

今日はこの辺で。

 

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武禅 (武想) の極は神人合一。