神田真澄の氣ままな話 in 明光武道 深雪館

明光武道 深雪館 道場主のブログ

氣の武道・明光武道とは 〜映画出演で感じたことを思い出したので書いてみた〜

春ですね〜。いろいろと忙しい日々もやっと一息つけたので、ホッと一息風呂に入ってましたが、今日はその時にふと思い出したことを書こうと思います。

 

映画撮影でのことなので、まだ公開前だからネタバレ的な話はできませんが、私が映画のロケ収録してた時での話をふと思い出したので、少しだけスポット的に話をしましょう。(映画公開前のため名前もふせますね。情報解禁になったらお知らせします。)

 

ある海外映画際の受賞監督で、世界の氣について求めていくドキュメンタリー映画を撮影していた映画監督から出演オファーが来たときの話から。当時は怪しいことも多いご時世だったし、相変わらずテレビ関係の依頼はふざけたものや、編集で正しく伝わらないことばかりで多々出演拒否していた背景もあり、今回の映画出演も内容次第ではあるが断る体でうちの事務局が交渉してました。

その後、監督から直接出演依頼のメールが届き、真剣な映画製作であること、監督やスタッフの真剣な熱意が伝わってきたこともあり、最終的には出演を快諾することとなった経緯があります。

 

映画ではヨガのクンダリーニの方がアジア諸国を中心に世界の氣の考えを求めて各国の代表する方々を訪じていき、各々の技術を交流する流れなのですが、その日本での武道ロケの一人がわたしであり、明光武道だったのです。(これには深雪館の指導陣・弟子たちも共演してます。)

 

その撮影時の話で、

そのヨガの達人と私との氣の交流として、明光武道の体験を通して、わかりやすく言えば相手を勁という力で直接押す、つまり氣を具現化した力で吹っ飛ばす状態時のこと。

他のスタッフや関係者、彼の弟子?たちは何回も経験され吹っ飛んだ中、今思うと彼だけは一度だけ交流するのみだったのです。まぁそのこと自体も忘れていたのですが、後に映画編集時にインタビュー収録時の(通訳の人が日本人でなかったので伝わりにくく、また正しく訳せてもなかったので、話したいものが半減した事もあり)話した内容の補説や解説を再依頼された際に、後に通訳や映画の翻訳をされてて、私も信頼してる日本の有名大の元教授(と当時私は呼んでましたので)から聞いた話なんですが、彼は私との氣の交流で"怖さ"を感じたと。だから一回で終えたのだ、と伝え聞きました。

 

それに対して私は少し驚き、そして同時に嬉しくもなったのを覚えています。

その時に答えた概要は、それはおそらく彼が大宇宙・天地自然の氣を明光武道を通して感じられたからではないですか、と伝えたのを思い出しました。

その部分を感じ取られたのは、さすがヨガ界での達人だなと。共有できた部分でもあったのかと笑みが溢れたのを、後にですが覚えてます。

明光武道の核は天地自然の氣と繋がり、取次ぐことに在ります。つまり、究極は神人合一です。講演会でもよく話してることですね。

これは合氣道開祖の植芝盛平翁も同根の話をされてます。武の極の話です。

わたしは修行の中で、日本古来に存在した武道の一つであり、素盞嗚尊が使ったとも云われる言霊剣(ことだまつるぎ)の伝承者・奥山先生のお話や、合氣武道開祖・植芝翁が修行されてた時分を実際にご存知である複数の方々からも、いろいろな分野の方から聞いた話もたくさんあるので、武道の極についてはある意味確信を持ててます。

 

明光武道の氣は、自らの氣を与えるというのではなく、天地自然の氣を取次ぐことに核があります。(当然だが、その天地の氣と繋がりうる器である身体、そして自身の根源的な力である氣・内功を練り自ら高め、修めた上での話です。)

だから取違えてはならないのは、その人自身が凄い氣・エネルギーの持ち主だとか、聖人偉人ではないのです。シンプルにいうと、天地自然の氣の取次者であって神ではないのです。ここを慢心して自ら神格化する残念な怪しい輩どもがおるから、氣はいまだに正しく伝わらないのです。氣はオカルトでも、ある意味超能力でもありません。

氣は人が持つ根源的な力・生命エネルギーなのです。

 

それを取り違いし自らを権威付けて、自分自身を特別視し、怪しい、慢心した姿は哀れです。ハッキリ言っておかしい人になり落ちますから。そういう状態に陥った者を、古神道では魔境といいます。非常に危険なことです。またそれに携わる者も然りです。見直してもらいたいものです。

 

話戻して武道の核の部分を繰り返しますが、ヨガの達人である彼は、明光武道の氣の体感を通して大宇宙・天地自然の、壮大な測り知れない氣を感じられたのかもしれません。

 

その後は、共演した彼は海外の方もあって話はできてませんが、いつも監督やスタッフの方々と私の仲介役を真摯に務めてられる元教授を通して彼には伝わってるとは思います。

その彼はヨガの究極は神との融合と言ってたと。神とは天地自然の姿を言ってるのだと思います。

 

最後にもう一回、他の気功関係とは一切違う核の部分を言います。

日本の古の氣の考えから、東洋武術界から大成した拳法と云われた氣の武術・意拳を考察し、新めて日本武道として再興した明光武道の極意は、天地自然の氣の取次であり、神人合一です。武術界では天人一致ともいいます。

これは植芝盛平翁が話されてた神人一如の言葉と同根であり、元の教えは出口王仁三郎聖師にあります。

ここを宗教的とか、枠の小さい科学やせこい頭で考えてもわからないでしょうね。少なくとも史実、事実として綿々と伝わってる訳ですから。

ちなみに言うけどもうね、わたしはある時からアホなヤツらは相手しないようにしてるので、低レベルな馬鹿話は面倒くさいし、かまう意味なし!で、完全無視で放ってます。好きにしたらええやん。

 

 武道とは闘いの道具ではなく、己と向き合い、高める、己の肚(臍下丹田・氣)の鍛錬であり、自身が根本的に高まることが、武の威徳となることなのです。その威徳は敵の戦意を言向け和し、心改め、平和へと導く力となる。

私はその教えを、武道人生一番の師である難波先生から取次がれ学びましたし、実際にそう体感・経験し、修めました。

リアルに闘う実戦格闘技(日本拳法)界に五歳から身を敢えて置いていたからこそ、今はその意義を肚で諒解できますし、その核を氣の武道の本質として明光武道を伝えています。

 

ふと、そんなことを想いながら熱いお風呂に入って汗を流してました。(これ毎日健康習慣の健康のキーワードね!サービスやで笑)

 

今日はこの辺で。

 

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写真は出口王仁三郎聖師の御作品。

明光武道の光は日と月である天地の姿(神)の御蔭が光であり、その光・氣を取り次ぐ武道の意。

植芝盛平翁が、なぜ大東流合氣柔術から合氣武道(合氣道)へと発展させ創始したのか、植芝翁が実践されていた合氣道の核は何か。そこの部分を勉強しないと、いくら植芝翁の妙技を追ったところでわからんでしょうな。そこがまだまだ武術という枠や、いろいろな意味で固執してるとこでもある。これは私も経験したことです。武の極みを肚から諒解できるまでは、本当に厳しい修行でした。

五歳からリアルに闘う実戦総合武道の世界に身を置いてから、さまざまな武道、格闘技と交流し、意拳の核を研究・修め、武道人生数十年。やっと辿り着けた境地です。明光武道を伝えることはその集大成。これからの使命はこの武の真を通して天地自然の摂理を取次・伝えていくことです。まだまだ道は生涯続きます。

惟神霊幸倍世(かむながらたまちはへませ)