神田真澄の氣ままな話 in 明光武道 深雪館

明光武道 深雪館 道場主のブログ

【特別版】日本拳法回顧録 その15 〜全日本を振り返って〜

今日はSNSでも話した、去年末に大掃除の休憩中に発見、誰か(日本拳法連盟の方?)がアップしてくれた全日本拳法総合選手権大会'89について。

当時18才で初出場(当時の最年少出場記録やったと思う)したYouTubeを偶然見つけて、当時のビデオはもう残ってないと諦めてたのもあり、テンションダダ上がりでそこからいろいろ懐かしく拳法人生を軽く振り返ってたので、その話を少ししましょう。

 

平成元年度 全日本拳法総合選手権大会1989

https://youtu.be/Rt4Jztap8nk?si=HBJwQ0etO2MFmyIM

(入場行進は探せばどっかに若かりし18才の俺がおると思うし、35`06あたりからの試合で左側のスマートな白胴を付けてるのが当時参段で大阪代表として出場した俺です。)

 

当時の全日本は西高東低と本家関西が強いといわれる日本拳法界の力分布ながら、実はルールによっては東の方が!ともいわれた時代。昔は関西が主の日本拳法会と関東が主の日本拳法協会の二大派閥から、今では小さい団体も入れると4〜5団体くらいある日本拳法。当時は全日本学生選手権大会のみ東西統一の交流した実質的全国大会だったけど、俺が全日本出場するころは東西交流がその流れから始まった時代。後に正式に日本拳法全国連盟日本拳法連盟)ができたと思う。

 

話戻って、高校生で参段を取った史上最年少記録(当時)を持つ俺は全日本拳法個人選手権大会の関西全域予選大会に出場した。

当然だが、全日本は予選突破した者だけが出場できる、いわば日本拳法家の夢の最高峰舞台なのである。もちろん拳法人生で一回も予選突破ならず、出場できない選手もたくさんいるほどの一番頂点にある大会、拳法若人の祭典なのです。

当時の洪游會本部の中野誠会長(現会長・中野文武ブンちゃんの父君)が、大会終了後に予選突破した選手たちを集めて、「君たちは全国で勝ち抜いて選ばれた代表選手である。その誇りを忘れずに日本拳法の代表として、練磨した技を発揮して正々堂々と闘ってもらいたい(要約)」と話をしていただいた時は、若い俺には心震えるエールでした。ましてや5歳から見てた中野誠会長が話してたのは感無量やったな〜。

全日本は実質世界大会みたいなモンともいえる日本拳法最高の舞台。名選手といわれる伝説の試合は数々生まれたのもこの全日本です。その当時の高校や大学のクラブ出身でなく、道場からのたたき上げの俺には武者ぶるいモンやったのです。まぁ、それだけ強かったんやで笑。

これくらい言ったら18才当時の俺の嬉しさ通じるかな笑。まぁそれくらい全日本に初めての出場は嬉しかったのです。

 

またまた予選大会に話戻って、当時思い出すと今でも冷や汗かく事件があった。

当時の予選大会に大遅刻して出場権剥奪になりかけたのだ。緊張からか余裕?からか寝坊してしまい試合開始時間の30分前に飛び起きた俺は、やってもた!と顔面蒼白で5分で準備して、重い10K近い防具を背負って会場までの阪急電車に飛び乗った。試合会場までは40分はかかる!もちろん真夏なのもあり汗びっしょり。ちゃう意味でもね笑。当然大遅刻だから、自分の出場するトーナメントは終わってたらジエンドやけど、運良く他のトーナメントから始まって間に合えば出れる!と、気持ちばかりが焦りながら車中バンテージを準備巻きするのさえ忘れてイライラと動揺を隠せない。なんたって18才の少年やし笑。ただただ神様に反省と祈るのみ🙏。

 

会場は当時、関西大学吹田キャンパスの体育館。とにかく会場へと一心不乱にダッシュで向かう。おかげでウォーミングアップできたかもだが?笑

試合場に入ると、道場の先輩たちが怒るまえに焦って準備を促す。なんとトーナメントの点呼時に代返してくださってたのだ!感謝しかない!

だがもうまさに俺の出場するトーナメントが始まろうとしてたのだ。ギリギリセーフ⁉️

その当時はトーナメントはいくつもの約16人位の小トーナメントがあり各トーナメント優勝すれば全日本出場権獲得となる。そのトーナメントには必ず前年の成績などから四段(以上)が最低1人〜2人入っており、そして参段、二段と特にバリバリの大学生中心の猛者が面を連ねる。

今始まったのは試合の、逆の山のトーナメントにいた俺はなんとか間に合いそう!とダッシュで用意。ダッシュで着替えて、ウォーミングアップも何もなくそのまま防具を装着。

その時、そのコートの審判長をされてたのが、当時マジにこわ〜い大商大OBで指導局の某次長(後に局長やったと思う)だった方にコテンパンに怒られる。遅刻は出場権剥奪なんか当たり前の時代、今思うとラッキーだったのは試合開始まで時間がなかったこともあり、俺が洪游會本部に5才から10年近く所属してたことで元有名選手の現審判の方々に可愛がっていただいたことも救いになって、他の審判方が助けてくださったのもあり、まぁ今回だけやぞ!と出場を許された。ホンマ感謝しかありません!!!

 

そのまますぐ俺の試合となった。相手は某大学の参段同士。試合で最初から審判の印象悪い俺は正直確実に勝たないと、負けてしまう!そう思って元々出れんかったかもしれん試合や!と、無欲で集中して戦った。

そうして心の中では、"その辺の大学生デビューからの参段ごとき相手になるかい(当時の大学拳法は勝ち負けが絶対体質ゆえに、実戦防具練習ばかりが主で、基礎である形が疎かになってるのもあり、形の名前など知らない者も当時は多かったこともあってか、後に昇段試合に形試験が加わった背景があると幹部の方から聞いた。俺は形試験などない時代に四段取った昔ながらの世代です。ちなみに四段は審判や指導員の資格を得る免状となる。)"と、バシバシと一本級の突き面(ストレートパンチ)や胴への蹴り(直蹴りや回し蹴り)が決まるのだが、なかなか一本を取ってくれない。遅刻した罰的に審判の洗礼を当然の如く受けた。さらには相手からの全然軽い、明らかに不十分の突きで一本先取されてしまう。後がない!

だが無我夢中の俺は、その困難な壁を乗り越えて、誰が観ても一本という突き面ストレート、そして上段回し蹴り(面横蹴り)を立て続けに決めて2-1で逆転勝利を収めた。

その試合の後に審判から、「こういう(遅刻した)時は勝ったらアカンやんか」と笑顔で皮肉的に称えられた。正直嬉しかったし、2度と遅刻せんと猛省もした。思い出です笑。

そうやって予選トーナメント2回戦にコマを進め、3回戦は誰やったか覚えてないけど笑、勝ち進んでいった。

そうしていよいよ決勝で待ってたのは、反対の大きい山からシード枠で満をじして勝ち上がってきた当時和歌山県の古豪有名選手・出口四段。本来この方が出場決めるトーナメントといってもいいのである。

だけどもここまで来た俺は、諦めずに番狂せを狙って氣合い一番!試合に臨んだ。

若かりし俺は老獪なテクニックよりは攻めの拳法。得意技の一つである、渾身の変則ニ段打ち・突き面が見事に決まった!相手の出口四段も取られたぁと構えを下した。だが相変わらずこのコートの審判は俺を優勝させないように暗黙の了解があってか不十分とコール、俺も、周りの応援者やギャラリーも、ええ⁉️と呆れるが、当時はそんな風潮やったんよ。最初から遅刻した俺が悪いわけやし、なんなら出場させてもらっただけ感謝やし、と氣持ち切り替えて試合続行!

そうしてる間にリズムを崩され、さすがの出口四段に1本決められ、そのまま時間切れで0ー1で優勢負けとなった。出口四段の予選トーナメント優勝で全日本出場権獲得となられた。

俺の夏は終わった〜とうなだれかけたのと束の間、違うコートへ点呼に行くよう促された。

初めての全日本予選でもあったので、ルールをそんなに把握してなかったのだが、(さらには開会式に出れてないので)、予選トーナメント決勝進出者は、敗者復活戦の出場権を得ることに!なんと!それに勝てば本戦の出場権を得れる!鼻息機関車トーマスよろしく首の皮一枚繋がった俺は、絶対全日本出たんねん!今度は全日本総合選手権の最年少出場記録作ったんねんと氣愛が入りまくった。

 

敗者復活戦の相手は同じく他のトーナメント決勝進出者。なんと俺の1年だったか、2年上の先輩の元高校全国大会三位入賞者の南部参段!知ってる!俺が嫌いな寝技を得意とするパワー選手。当時スマートタイプでテクニシャンタイプの俺は「うわ〜マジか〜」と思いながらも、俺も実質全国一位の記録保持者、そこは譲らず自信を持って新旧高校トップランク選手権やと心振るわせながらいざ試合へ。

 

試合内容は35年も前ではっきりと思い出せないが、俺が突きで一本、南部さんが寝技で二本で1ー2で負けて、俺はそのまま大会の補欠選手へエントリーされることに。

 

補欠選手は全国で10〜15名ほどおったかと思う。

後に知ったのだが、補欠選手は出場優先順位があってそれに沿って出場するらしい。

全日本の試合1ヶ月前くらいに、当時所属道場だった仏光振武会の近藤師範(無茶苦茶有名な選手だった。抜き胴や掌底技を使わせたら日本一といわれ、わたしも伝授してもらいました)から、ニコニコ顔で "神田くんは、今までの実績(龍峰杯優勝、全日本社会人個人優勝、豊中市民体育大会2連覇、高校参段取得などなど)から選考で補欠出場順位が圧倒的に第一位やったから、全日本出る準備しときや!"と

話をいただいた。18才の俺は飛び跳ねて喜んだ。

やった!全日本初出場や!あの夢にまで見た、岡田師匠はじめ幼き頃から目にしてきた有名選手の方々が同じ選手権、試合場の舞台に一緒に立てる!五才から夢見た大会出場を実現した瞬間だった。

はい、それからはお決まりのロッキーのテーマから始まって特訓開始が始まったのは言うまでもない笑。

 

そして、いよいよ全日本拳法総合選手権大会のメインイベント、全日本拳法個人選手権大会への出場が正式に決定し、俺の全日本への最初の一歩が始まった。

 

今日はこの辺で。次へつづく〜

YouTube見てね〜

 

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https://youtu.be/Rt4Jztap8nk?si=HBJwQ0etO2MFmyIM

YouTubeで全日本拳法総合選手権大会'89から。シード出場で二回戦での戦い。当時は協会関東勢と本家関西勢の組み合わせが多かった。

防具が少し違うのわかるかな〜。左の上段面蹴りしてるのが俺。もちろん勝ったけどなw。