神田真澄の氣ままな話 in 明光武道 深雪館

明光武道 深雪館 道場主のブログ

【改訂版】日本拳法回顧録11・12 〜格闘技活動から氣の武術界へ〜

ちょうどいい時期なんで、前に掲載した日本拳法回顧録11から、少し加筆して再掲します。ダイジェスト版的にどうぞ。

 

 

9月は日本拳法全日本選手権大会が開催される月でしたので、久しぶりに思い出深い日本拳法の話をしましょう。

ちなみにブログ用に、どなたでもわかりやすいように敢えて高揚感タップリ、詳しく書いてますんで、格闘技興味ない方でもストーリーとして少しは読みやすく、楽しんでもらえるように書くよう努めてますので、是非一読してもらったら嬉しいかぎりです。

 

 

 参段(三段)になった私は、4月の春休み期間に行われる、所属道場の拠点となる豊中市民選手権大会に出場しました。

その当時、大会は階級別で段外の部、初段の部、二段の部、三段以上の部(現四段以上・高段の部)に分かれて開催されました。

 

私がエントリーされたのは三段以上の部。

そこには全日本でも活躍するトップレベルの強豪も数人エントリーされていました。

中でも、一番の強豪が笹部信彦四段(現五段)。

当時、笹部さんは道場の先輩で、元中京大学拳法部出身、学生日本一を決める全日本学生拳法個人選手権大会の準優勝者で、日本拳法中部選手権のチャンピオンや、全日本総合ベスト8などの輝かしい戦績を持つバリバリ現役時代の日本トップ選手の一人でした。

そんな激戦トーナメントだったのと、初めての三段以上の部出場もあったりで、まぁ、優勝は朧げにないなと思ってましたが、生意氣だったこともあり、入賞はできるかも!と想い、メダル狙って試合に臨んだと思います。笑

 

さすがに30年程前の頃なので、はっきり覚えてないですが、1回戦から一本も取られずに勝ち進んで、準決勝まで無傷で勝ち進みました。

心の中で、「やった!メダルもらえるやん!」と秘かに喜びながら、顔はポーカーフェイスで

カッコよく試合に臨んでました笑。

 

しかし、大きな壁がそびえ立ちます。なんと準決勝で対戦するのが、優勝候補筆頭のあの笹部四段でした。ある意味笹部四段が優勝するだろうと大会主催側も観客や関係者も思われていた大会でしたから、私自身もこりゃえらいこっちゃと、こりゃ三位フィニッシュやなと心の中はなったくらいの、前段に説明した、前年チャンピオンで豊中選手権連覇中の最強の笹部四段!

こりゃ、正直に言うと、半分諦めてました。

いくら俺が高校で、龍峰杯や全日本社会人、そして当時最少年齢で三段とった伝説の天才だった(笑)としても、現役バリバリの全日本トップランクの選手に勝てるはずがないと。

だから、胸を借りるつもりで、ある意味ノンプレッシャーで準決勝戦に臨みました。もう、メダルもらえるし、この成績でも十分に讃えられるやろし、負けて当然〜みたいな笑。

でも、その無欲さが、肩の力を抜いて、リラックスできたのかもしれません。

 

そして、いざ試合開始。

なんと、身体が嘘のやうに軽く動きます。

あの笹部四段相手に、互角に戦ったのです。

笹部四段は柔道も有段者で、日本拳法総合格闘技ですから、投げもありますので、当時投げ技・寝技がキライな私は、立ち技で勝負することが多かったのですが、もちろん寝技が苦手なことは笹部四段も既知のことで、その攻防が面白かったようで、観客席も注目でした。(後で知ったことですがね)

そして、試合時間3分が経過して一旦引き分けとなります。続けて、無制限延長戦に入りました。一本先取した方が勝利てす。

ですが、この延長戦でもなかなか決着がつかない。笑

相打ちが多かったのを覚えます。印象に強く残ってるのが、笹部四段が得意の突き胴といって低く身体を倒してボディを直突き・ストレートするのと、私がそれに合わせて面を回し蹴りする、つまり顔面をハイキックするのとでお互いに相打ちとなったのは覚えてます。鉄の面を素足で蹴りますから、試合後に私の脛の肉が切れてたのが、激しさを物語ってると思います。

ちなみに縫わずに、通称・外科ゴロシといわれる漢方の塗薬で、縫うことなく治しましたがね。笑

 

そんなこんなで、お互いに体力も消耗して、睨み合いになった時、主審の高五段(今では審判部部長だと思う)が試合を止めて、お互いに注意が発せられました。柔道でいう教育的指導みたいなもので、もっと攻め合うように!と。

その刹那、私の頭に策が浮かびます。

審判の注意から、必ず笹部四段は先に攻めてくるだろう。だから、それに合わせて迎撃するように見せかけて、スッと身体を沈めてカウンターの突き胴だと!

そして、次の瞬間見事に笹部四段の右ストレートに合わせて、私のカウンターの突き胴がハマり、胴を突き抜くパンチの音がバッコォ〜ン!と場内に響きました。

一本!勝負あり!

そうその瞬間、私は笹部四段に勝利してしまったのです!

あの全日本ベスト8であり、元全日本学生準優勝の、有名なトップランクの選手である笹部四段を破って、豊中選手権を制覇したのです!

これは自信になりました。

うん、自信から確信へ!

 

この準決勝が実質の決勝戦だったようなもので、失礼ながら決勝戦で戦った相手は名前さえも覚えてないのです笑。まぁ、楽な向かいのトーナメントで上がってきた選手ですから、私側の激しいトーナメントとは違ったでしょうしね。確か、私の記憶が正しければ拳法の名門・関西大学関係の選手(OBか現役主将やったか)だったと思います。同じ三段同士だったと思います。

 

勝戦は、本戦三分で決着がつきました。

笹部四段との無制限延長戦で戦った満身創痍の私と、まだまだ元氣な相手選手とでは、体力的にも差がありましたが、攻防で決まりが出ず、

はっきり覚えてるのは、「あと少しです!」というタイムキーパーの声が聞こえてから、少し経った終了間際に回し蹴りを決めて、一本!防具の割れんばかりの音が豊中武道館にヒビキました。これ、地元の人しかわからないギャグね笑。

 

その瞬間18歳で豊中選手権を制覇した私は、若氣のいたりで感無量の嬉しさもあり、右手を突き上げます。これ、私の勝利の定番ポーズね笑。優勝したことも嬉しかったが、あの笹部四段に公式試合の真剣勝負で、しかも延長戦で勝ったのが、本当に自信と嬉しさがありました。

それは今でも覚えてます。

 

またも若氣のいたりで、表彰式で優勝にキャッキャ喜んでたら、笹部さんからこれは俺のもんになるはずやったんや、トロフィー変えたるって、冗談で持ってかれたりしましたが、今だから言っていいと思いますが、試合後も笹部さんはなかなか着替えもされず、悔しさでぐったりと肩を落としてベンチで落ち込んでられました。悔しさがおさまらない様子でした。

でも、普段同じ道場でいつもトコトン練習に付き合ってくださってる笹部さん。本当にいい兄貴分って感じで、道場の面々を引っぱって行ってくださった名キャプテン。拳法史に残るトップ選手の一人であり、本当にお世話になった方の一人です。

飲んで酔うと、ホンマに面白いんですけどね笑。重量級のイカツイ顔と身体でコケてお尻で階段降りてきた事件とか笑。ええ歳の成人なのに乳歯生えてた話とか笑。伝説はいっぱいです笑笑。

それはまた今度の話で。

 

先ほども書いたけど、9月は日本拳法界では全日本の季節なのでオマケで笑。

この豊中市を制覇した年、私は拳法界で快進撃します。

なんと18歳で、日本拳法の最高峰の大会・日本一を決める全日本拳法総合選手権大会の大阪地区予選トーナメント(本拠地のため関西予選規模の人数)を突破し、大阪代表として初出場で、全日本拳法個人選手権大会に出場権を獲得しました。

(ちなみに当時は日本拳法は、元祖である最大団体日本拳法会、関東中心の日本拳法協会、後には一部が合併した日本拳法連盟NPO法人日本拳法協会、世界日本拳法連盟など多数あった。わたしは最大の日本拳法会所属選手で、四段・指導員・審判員資格保持者でした。)

 

後に何度も出場したので、記憶が朧げですが、

予選大会の試合後に、予選突破者だけ集められ

中野会長(日本拳法の生まれた道場・洪遊会)から、「君たちは、今日、拳法界で選ばれた選手たちです。それを誇りに、それに相応しい振舞いと精進を忘れずに、素晴らしい試合を本戦の大会で見せてほしい。日本拳法の代表として切磋琢磨せよ!」のような内容の話をいただきました。若いながらも、心がふるえたのを今でも鮮明に覚えてます。私の武道家としての原点・誇りがここにもあります。

 

そうして、2ヶ月後。

本戦である全日本拳法総合選手権大会が開催され、日本一を決める全日本拳法個人選手権大会に出場しました。

開会式では、優勝候補の一角・西光四段(現六段)ら錚々たる有名選手たちの中、私の元出身道場の洪遊会の先輩の米山三段や後輩の徳永三段(現四段)などの懐かしい顔が、当時は防具の胴が赤・白で分けてた時代だったから、胴当て姿で皆さんと話してたときは、「あぁ、幼い頃から見てきた世界、俺も憧れのレベルの世界の一員になれたんや!」と、5歳から始めた私には感慨深い時でもありました。大阪代表のゼッケンは嬉しくて、シーズン後も敢えて付けてたりして笑。団体戦などで全日本選手権アピールして相手を威嚇?したり笑。ホンマ嬉しかったな〜。

 

そして試合開始。

初出場ながら私は三回戦まで進み、本戦はおしくも0ー0の引き分けから延長戦の末、判定負けで準々決勝には進めませんでしたが、結果として18才の初出場で全日本ベスト32まで勝ち進める快挙を起こしました。

ちなみにその時の出場者は、全国から予選を勝ち抜いた約100人くらいのトーナメントだったと思います。私のAコートには、優勝候補の雑古四段はじめ、学生チャンプで天才と謳われた若原三段(現四段)がエントリーされており、なんと若原三段が全日本選手権連覇中の絶対王者・雑古四段(現六段)を破るという番狂わせが起こったおもしろい年となりました。関係者の方は、記憶に残ってるのではないでしょうか。

 

この全日本総合選手権については、初出場後も、多数回出場してますので、思い出深かった、日本拳法協会の全日本重量級チャンピオンだった鎌田四段との対戦などはまたの機会にあらためてお話しますね。

 

たしか、全日本初出場後の18歳のときにK-1からT氏にスカウトとかされたな〜。

当時はトーワ杯などいろいろな団体が格闘技出身のプロ・アマ混ぜた大会の開催も多々あった時代で、例えばK-1の前身である正道会館の全日本オープン空手大会にシュートボクシングのプロだった平選手(グラップラーバキのモデルになった格闘家)が出場して、グローブルールで優勝候補の柳沢選手と戦った死闘は有名だったし、優勝した佐竹選手のグローブルールでの決勝戦は圧倒的で、その後にK-1の初期団体ができていってと、格闘技界がドンドン変わっていった時代だった。いろいろ出たな〜。

あのまま拳法界、格闘技の世界に在籍し続けてたらどないしてたんやろ、とたまに想う。

 

わたしはだいたい20代なかばから東洋武術の最高峰と謳われた意拳に出会い、肚を決めて氣の世界へ身を投じていくことになるので、その際に一切の格闘技歴を一旦リセットして、ゼロから修行に入った。それもあって、団体間の問題や格闘技活動、前の団体と袂を分かって独立したことなど、いろいろ複雑なんですわ笑。だから別にその時の話を今は言う氣もないし。腐った話や面倒くさいこと、武士の情けで全部背負って、敢えて封印してることもあるしで、そこは言うべき時にしか言わないよ。どうでもええくだらんことに囚われる氣はないし、そんなレベルの低いことはしない主義なのでね。もっと大事なやるべき、意義ある事にエネルギーを注ぎたいですしね。

俺がいつも肝腎と思ってるのは本質。本質が伝わってればそれでよし!です。

氣について、武道については、またじっくりと話していきます。

 

ということで、この全日本総合選手権大会初出場の時は、記憶が朧げやけど親友のチョロマティこと久松や一緒に日本拳法をやってた同じく親友の笹川、元剣道家のタッキンこと瀧本ら他数人で垂れ幕作って応援に来てくれたな〜。"勝て!北野の帝王・神田!"的な垂れ幕、覚えとるかな〜。

そうそう、今やから言えるけど笑、その友達の結婚式3次会の終わりまで飲んでて始発で帰ってきた後に、ひどい二日酔いの状態で四段戦で勝ち抜いた話もあったな〜。もう酔拳やん笑❗️またこれらについては氣が向いたら書きますね。

 

今日はこの辺で。

 

 

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写真は、現在神田流拳法(スタイル)の遺伝子を受け継ごうとがんばってる当道場の深雪會グループのSANDA CLUB Mz所属の弟子で、シュートボクシング スーパーバンタム級のプロ選手・仲田光大。これはデビュー戦を前にバンテージを巻きながら、作戦を授けてるワンシーン。皆に支えられ、運も味方につけて、がんばってここまでのし上がってきた彼のただならぬ緊張感が漂ってますね笑。

 

ちなみに同じSB界では、有名な元シュートボクシング日本ウェルター級チャンピオンの梅野選手とは、日本拳法時代に全日本の予選で戦った仲。もちろん俺が勝ったけどね笑。でも彼も若かったし、手こずってすでにパワフルで強かったのは覚えてるな〜。だからプロで同じ日拳出身の彼がシュートボクシングの王者になったことを知った時は納得したし、嬉しかったな〜。日本拳法出身者の格闘技界で活躍してるプロ選手たちは結構多いですよ。

当時はうちの道場の弟子には警察の逮捕術の元団体チャンピオンや自衛隊やらいろんな格闘家たちもおったし。

興味ある方は門を叩いてくださいな。