神田真澄の氣ままな話 in 明光武道 深雪館

明光武道 深雪館 道場主のブログ

古の日本の氣の考え方 〜氣は魔術でも超能力でもない〜

バースデーウィーク記念に久々の更新です。

今日は氣において大事な話をしてみましょう。

 

日本の古の氣の考えから、根底的なことを話しましょう。

氣とは。

氣は難しい?選ばれし者のなのか?今となっては怪しいものも含めて、猫も杓子も氣といってますからややこしいですね。

一般的に氣といえば、中国がルーツのイメージが強いのでは?

古の日本の氣は本質的な違いがあります。

 

現代の氣功などでは一般的に、氣は使う、与えるという考えであり、密教的な等価交換の考えが根底にあります。(諸説ありますが概論的に。このブログの本質は別にあります。)

氣をあげて病気を治してあげるから、その対価として大金を納めなさいとか。それが良い悪いの議論で

はなくて、根本的な考え方を話してます。

 

著名な気功師の人たちは多くがその考え方の下、最終的に自身の氣を取られて・持っていかれて、重い病に陥ったり、命を落としたりする例は多い。こういうことは公表されてないのが世の常です。以前メディアで有名だった氣で病を瞬時に治す中国人の某氏が、その後まもなくに癌で亡くなった事実もあります。その事実さえも強引に風化されたり、敢えてオカルト的に済まされたり。

 

私は元々、慢心者の末路の酷さについての話をよく聞いてきました。

さらには実際に近しい人たちがそのようなことから生死を彷徨った姿や、その後慢心して妄想的言動や、考えや行動がおかしくなってしまった姿などを何度も目の当たりにしてきました。武士の情けで詳細は書きません。ですがそのような姿を見て私自身、武術の修行中やその後の伝承中でも複雑な想いになったものでした。

単純に、なぜだ?と。

しかし氣の世界は好結果ばかりが表に出て、その裏で起こっている不都合な事実は歴史的にも隠されていたり、正式には伝えられてさえいません。

後に、私にとって一番の師匠であった難波先生から肚で学べたことですが、このようなことは慢心してしまった行為であり、さらには危ない悪魔的な宗教や邪霊の思想にも繋がりうる、非常に傲慢で危険なことであるのです。

 

また、この慢心者を教祖的に信じ込み、正邪が判断できなくなる洗脳団体は多々あるでしょう。そういう状態下では自分自身ではその現状に氣づかないことが殆どだし、本人自身は絶対正しいと、間違ってることさえ分からないですから厄介なのです。

古の神道で鎮魂帰神法がありましたが、

これは審神者といわれる者が重要で、例えば神がかり状態になった者のその正邪を判断したのです。スピリチュアル好きな方は、ここをよく判っておかないと、低級霊(狐や狸など)の邪のエネルギーに惑わされてしまいますよ。自分を神格化したり、神がかりと思っていながら邪霊に取りいられてしまう、またその力を利用して権威付けたり我欲に走ることは非常に危険です。邪のエネルギーもそれなりに力はあるし、正を装ってそれらしい行為をしますから。残念なことに現代はそんな力に依存してる世の中になってしまってますがね、ある意味で。非常に危険で残念なことです。ここは詳しい説明は敢えて略すので、興味ある方は自分でキチンと調べてみてください。いたずらにオカルト的な理解で捉えるのではなく正しく知識を持ってほしいので、敢えて話してます。ミソもクソも、なんでも一緒に考えるのは危険ですよ。

 

改めて、武道とはかけ離れたと思っていた古の神道の教えに、つまり大宇宙・大自然の摂理にその答えはあったのです。

 

話戻して、古の日本では、氣は天地・大自然に充満しており、その大いなる氣と人とが繋がること、そしてその氣を取次ぐことが核にあるのです。和である古の神道的な考えにあります。

 

一般的に氣は高いものから低いものに流れます。

つまり自然界の法則では、高いエネルギーから低いエネルギーへと流れますが、それを我欲のためなどから意図的に氣を与える・あげるなどの過ぎた行為に至ると、氣は枯渇し心身を壊すこととなってしまいます。

例えば病の患者に自分の氣を送り過ぎたり、さらには己の権威のためや欲望のために氣を使い果たすことで、氣は取られて枯渇し、自身を病氣や死にも至らしめたり、もしくは邪に入られ心身を滅ぼすことになってしまう。

治療家が施術後に疲れて、そのまま体調を壊したなんて話はよく聞くことです。そもそも治療家が"私が治してやる""私が治してやった"なんて傲慢な考え、ましてや慢心した人の氣は、受ける側も含め、結果的に両者によくないことは直感的にわかるでしょう。医療関係者は、その患者が治ろうとする力を手伝う、取次ぐ役目と私は思っています。それを導くまでがいろいろ大変ですがね。

そもそも気功には天地人合一という言葉があるのですが、それを実現できた先人たちは実際にどれだけいたのだろう。もしくはそれを現代で正しく実践できてるのは何人いるのだろう。逸話は沢山ありますが、その真実はとなると…。

慢心は決してしてはならない。常に腹帯を締め直して臨むべしです。

 

先も言いましたがもう一度繰り返します。私はそんな実例を、実際に近しい人で幾人も見てきましたから、改めてその考えを正すべく、自らの集大成として、古の日本の氣の考え、氣を正しく日本、世界に伝え残すことを主に、日本の古の氣の考えに則った武道・明光武道を創始して伝えているのです。

氣は、特殊な人間が与える、あげるものではない。氣の根源は大宇宙・大自然の氣であり、その氣と繋がり取り次ぐことが、古の日本の氣の考えであるのです。現在ではその古の氣の考えを元に実践・伝承してる武道が、当道場の明光武道 深雪館であり、さらにその考えをあらゆる形で伝えている深雪會グループの活動です(チーゴンフィットネスや瞑想道場、格闘技のクラブや食制体型研究・合宿、セミナー講演などのグループ活動)。それは自負してますし、だからこそ我々は後世に正しく伝え残すことを使命としています。形や名誉権威など、どうでもいいのです。大事なのは武の本質を伝え残すことです!

 

この氣の武道の考えは当道場グループが発信している氣の核の大事な部分です。

かの植芝盛平翁が伝えられた合氣武道(合氣道)も正にその核を伝えられてましたが、今ではその真を伝えてるのは残念ながら見たことがありません。

私は先にも話しましたが、この大宇宙・大自然の法則を一番の師匠であり、古の神道の宣伝師でもある難波忠元先生(世界改造者、大神人・出口王仁三郎聖師の片腕と言われた佐々木松楽師の弟子でもある)から、肚から諒解するまで何度も厳しく取り継がれました。厳しい修行の中、師匠と私との間に共有する眞の教えがあり、それを伝え残すという共通の使命があったのです。五歳から武道の世界で生きてきたわたしには厳しい日々でしたが、今では武道の極と肚から理解しています。

 

氣は人が持つ、天から与えられた誰もがもつ根源的な力・生命エネルギーです。

そして氣は意思・想念であり、また言葉であり力です。

っと、また長なるのでこの話はまた次回以降でお話しましょう。

 

f:id:miyukikan:20210313204711j:image

 

日本の伝統文化である、氣の考え。

もう一度、真剣に向き合いませんか。

 

今日はこの辺で。

 

f:id:miyukikan:20190630204227j:image

こういう映画は娯楽であって、真実からは程遠い。氣は超能力ではないからね。こういうことにスポットを当てるから、魔訶不思議な怪しいものになってしまう。だから氣を学ぶ入口はリアルに武道として学ぶことを勧めたいのです。その先に氣のいろいろな可能性があるのであって、その部分ばっかり求めて訳の分からん術を学ぼうとするから、危ない世界になる。まずはリアルに氣を感じることから始めることです。それでないと暗示などの代物になり落ちてしまいます。それはもう氣ではない。ミソもクソも一緒にして間違えて捉われないようにね!